大学講義(1)1981年の個人開発事情

先日のブログで予告させて頂いたように神奈川工科大学で行わせて頂いた講義の内容をシリーズ記事として書いていきたいと思います。
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第1回目の今回は講義冒頭に自己紹介させて頂いた時に少しお話しさせて頂いた、私が子供の頃のコンピューターゲーム事情について掘り下げて書きたいと思います。

  • 時は1981年!くまんぼう少年は中学1年生でした。

3年前の1978年に大流行したインベーダーゲームとの出会いのせいで私はすっかりテレビゲームの虜となっていました。
しかし、まだ家庭用ゲーム機はあまり普及しておらず、ファミコンの登場まではあと2年待つ必要がありました。
そして、唯一最新のテレビゲームに触れる事が出来る場所「ゲームセンター」は不良のたまり場、アンダーグラウンドな場所としてのイメージが色濃く、学校からは立ち入り禁止のおふれが出されていました。
補導員や見回りの先生に補導されるかもしれない、それ以上に不良達に喝上げされるかもしれない…そんな危険を冒し分け入る場所それが「ゲームセンター」だった頃のお話しです。

このような状況でしたから、今のようにどこでもテレビゲーム(以下ゲーム)が溢れていて、ポケットからスマホを出してすぐにゲームをプレイ出来るような事はもちろんありません。
ゲームに触れられる場所が限られている中、私のようなゲームに魅入られてしまった者達は「どこかにゲームが出来る場所はないか」と探していました。
そんな私たちが見つけたのがデパートのパソコン売り場でした。
この頃の個人向けコンピューターは「パソコン」ではなくMy ComputerもしくはMicro Computerの略で「マイコン」と呼ばれていました。
私のいた石川県金沢市ではコンピューター専門ショップはあまりなくマイコンは主にデパートなどの電化製品売り場の隅に展示されており、値段は20万ほどし中学生には高嶺の花でした。
ちなみにこの頃マイコンを買って自宅にマイコンがある人のことを「マイコン族」、持っていない人のことを「ナイコン族」と呼んでいたと記憶しています。
レトロPC

  • ゲームは打ち込む!

デパートでは、まだそれほどなじみのないマイコンという商品に触れてもらうためか、ショーケースの中に展示する形ではなく、テーブルに1台ずつ置き、しかもちゃんと椅子も設置され腰を据えてマイコンを使える様になっていました。
で、マイコンで何をするのかというともちろんゲーム!…なんですが、「コンピューター ソフトなければ ただの箱」と言うようにゲームソフトがなければゲームは遊べないわけでして…
しかし、この頃はゲームソフトは3000円〜5000円くらいで中学生にはホイホイ買えるような物ではなく、種類もあまり多くありませんでした。
だから僕たちはゲームを「打ち込んで」いたのです!

マイコン雑誌 LOGiN ログイン
この時代のマイコン専門雑誌にはゲームソフトのプログラムソース(当時はプログラムリストと言っていました)が印刷されて掲載されていたのです。
全国のマイコン少年達が自作のゲームを雑誌に投稿し、そのソースが雑誌に載り、また全国のマイコン少年がそれを打ち込み遊ぶというのが当時のマイコン愛好家のコミュニティでした。
実はチュンソフトの中村光一氏もこの頃雑誌で活躍したプログラマーの一人です。
この頃有名になったプログラマー達を表す言葉として「スタープログラマー」という言葉があるのですが、その話はまた別の機会にでも…
(-_-)スタープログラマーニ アコガレタ アノコロ…

SHARPのMZシリーズ、NECのPC-8001シリーズがこの頃の人気マイコンでした。(後に富士通のFMシリーズも人気が出てマイコン御三家と言われる様になります。)
今のプレイステーションとWii、Xbox等の関係と同じようにある機種用のソフトはそれ以外の機種では動きません。
なので、雑誌に載っている自分の遊びたいゲームの対応機種にプログラムを打ち込む必要があります。
デパートには各機種1台ずつしか展示されていませんので、自分の遊びたい機種を確保するためにデパートの開店時間に並んで開店と同時にマイコン売り場にダッシュするのです!
希望の機種を確保してもここからが本番、長い長い戦いが始まるのです。
雑誌掲載のソースは平均で10数ページ、長いものですと数十ページほどになる物もありました。
短い物ならその日のうちに打ち込み終わって遊ぶことも出来ましたが、長いものは数日かかる物もありました。
当時は記録媒体に音楽のカセットテープを使用していました。
プログラムをカセットテープに記録するにはデータレコーダーという周辺機器をが必要で、データレコーダー内蔵の機種なら数日に分けて打ち込む事も出来るのですがそうでない機種の場合は…その日、その日が勝負になります。
朝から打ち込み、昼過ぎから夕方にかけて打ち込み終わり、デパートの閉店時間まで打ち込んだゲームで遊ぶ。
そして、閉店時間になったらマイコンの電源を切って、打ち込んだゲームは消える…
同じゲームで遊びたかったらまた打ち込む、それの繰り返しでした。

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  • 必要は成長の母

もちろん人が手で打ち込むのですから打ち込みミスも頻繁におこります。
せっかく何時間もかけて打ち込んだゲームが動かないという、子供には残酷すぎる状況に何度もぶち当たるのです(ノД`)
そうなると、どこが間違っているのか必死にデバッグすることになります。
そうやって「間違う」→「直す」のサイクルを何度も繰り返すうちに自然とどのコードがどんな働きをするのか覚えていきました。
コードの構造がわかってくると、こんどはゲームを改造することにはまっていきました。
自機の数を増やしたり、最初からフルパワー状態で遊べるようにしたり、自分好みにゲームを改造して遊んでいました。

そして、自然な流れでプログラムを覚えていき、その後はオリジナルのゲームを作りたいと思うようになっていくのです…

こうして、くまんぼう少年は開発者としての第一歩を踏み出しました。
この時代にプログラマー人生を歩み始めた方達には同じように「ゲームを遊びたいと思っていたらプログラム出来るようになっていた」といった道をたどった方も少なくないのではないでしょうか?

今回この記事を書くにあたって正確な年代を調べて驚いたのですが、もう30年以上前の話なんですよ、これ…(^_^;)

 

  • It’s a Small World!!

ちなみに私がよく行っていたデパートはサンテラス金沢(現アピタ金沢)です。
ここは後年Appbankさんがイベントを行うことになる場所です。

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【アピタ金沢 催事場】にてiPhone初心者向けイベントを開催しました。次は「広島」だぞ!!

世界はつながっていますね!!(^^)/

 

  • 付録

ちなみにこの頃のマイコン雑誌に出ていた広告です。
中村光一 賞金
作ったゲームでわずか19歳にして2000万円もの大金を手に!と書いてあります。
どこか、iPhone界を彷彿とさせるエピソードかも…
歴史は繰り返す!
頑張るぜ!!!